2014年2月12日星期三

古代支那人连金银比重都不知道,缺乏起码的科学素养。

九章算术: 黄金方寸,重十六两;金丸径寸,重九两,率生于此,未曾验也。-刘徽注 ------------------------------------------------------------------------------- 这段话足以说明支那人缺乏起码的科学素养,很简单的物理特征,也不去检验一下。 这个重量直接关系到球体积公式的正确性,很明显,古人的记载是错误的。 西汉时,一寸=2.31cm,一斤=250克,金的比重是19.3,很明显可以算出:黄金方寸重0.95斤=15.2两,金丸径寸重8两. 以数学公式推算,圆球与外接正方体的重量比是:11/21(pi=22/7计算),9/16的结论误差比较大。 这个极其简单的物理特征测验,古代支那人也懒地去做。
天工开物: 凡金质至重,每铜方寸重一两者,银照依其则,寸增重三钱。银方寸重一两者,金照依其则,寸增重二钱。 -------------------------------------------------------------------- 宋应星已经是明末的人,连金银铜的比重也搞不清楚。 金银的密度比应为:1.84:1(寸增八钱四分) 银铜的密度比应为:1.18:1(寸增一钱八分)
孙子算经: 白银方寸重一十四两。 玉方寸重一十两。 铜方寸重七两半。 铅方寸重九两半。 铁方寸重七两。 石方寸重三两。 ---------------------------------------------------------------------------- 以南北朝的度量衡推算:白银方寸重约十两。铜方寸重约八两半。铅方寸重约十两半。铁方寸重约七两(唯一接近准确的数据)。 玉石密度范围较大,硬玉的比重(3.25-3.4),软玉(2.9-3.1)。以此估算,玉石方寸约重三两。
石头的比重大约是2.5-3,折算下来,石方寸重约二两半。

2014年2月3日星期一

慰安妇和女子挺身队完全是两码事,韩国人故意混淆,栽赃陷害日本人

女子挺身隊

女子挺身隊
女子挺身隊(じょしていしんたい)は、第二次世界大戦中の1943年に創設された、14歳以上25歳以下の女性が市町村長・町内会・部落会・婦人団体等の協力により構成していた勤労奉仕団体のこと。

概要[編集]

敬礼して工場に入る女子挺身隊
女子挺身隊は、日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国民総動員体制の補助として行われた。国家総力戦となった第二次世界大戦の様相から、アメリカイギリスなどの連合国は日本に先んじて既に女性を軍需工場などに動員していた[1]。 例えば、イギリス王族のエリザベス(現イギリス連邦王国女王)も、16歳当時、イギリス陸軍において技術将校に任官して軍車両の整備をしていた。
日本も戦局の悪化で徴兵が拡大して男性労働力が不足すると女性の労働力を無視できなくなり、連合国の女性勤労写真を引用して「敵アメリカの女さへこんなに動員されている」と紹介するまでに至った[2]。1943年9月の「女子勤労動員ノ促進ニ関スル件」では、航空工場・政府作業庁・男子が就くべきでないとする分野(たとえば、保母(現・保育士)や看護婦(現・看護師))などで女性労働者の就業拡大を図るものとされた。工場を長時間労働させるために託児所も増やされた。そして、1944年勅令第519号をもって、女子挺身勤労令を公布した。この法令によって女子挺身隊は勤労奉仕(雇用関係無し)から集団就職(雇用関係有り)という形に移行し、健康保険法や厚生年金保険法などの法定扶助を受けることができることとなった[3]1945年3月には同令が国民勤労動員令によって吸収され、女子挺身隊も国民義勇隊として改組された。

関連の法律・運動[編集]

  • 国民徴用令は1939年(昭和14年)7月に施行
  • 国民勤労報国協力令(昭和16年)[4]
14-40歳の男子、14-25歳の実質未婚女子。原則、30日/年
  • 女子勤労動員ノ促進ニ関スル件( 昭和18年9月 次官会議) 自主的な組織で14歳以上の未婚者。 
  • 1944年2月、国民職業能力申告令の改正によって12歳以上が労働力とみなされるようになる。
  • 当時の義務教育は、初等教育の小学6年までである。その後の就職はよくあることであった。
  • 1969年の韓国の『ソウル新聞』は、挺身隊員の総計を20万人、うち朝鮮人は5-7万人だったとしている。一方、高崎宗司は、朝鮮人の挺身隊員は確実な資料から判断すると多く見積もっても4000名程度としている[5]
  • 当時の数字として、1944年5月の日本の女子挺身隊の結成率7%、1944年以降12歳以上の生徒や学生約300万人が動員、10歳以上の児童、青年学校および中等学校の学徒500万人、という数字がある[6]
  • 女子挺身隊制度強化方策要綱(昭和19年3月18日)[7] - 挺身隊に取られる期間はさしあたり1年
  • 女子挺身勤労令(昭和19年8月23日)[8] - 即日施行
  • 学徒動員令も同時施行(中等学校二年以上)

朝鮮における挺身隊[編集]

  • 国民徴用令は1939年7月に施行されたが、朝鮮においてはずっと後になる。
  • 日中戦争の頃、挺身隊という語は男女問わず「自ら身を投げ出して進めること」として1940年から使用されていた。未婚女性の勤労動員である挺身隊は、朝鮮語で未婚女性や若い女性を意味する「処女」に由来し、「処女供出」とも呼ばれた。
  • 日本では就職する事によって徴用を逃れようとしたが[9]、朝鮮では早期に結婚する事によって徴用を逃れようとした。未婚女性は戸外労働を忌避する伝統があり、家から離して隠したり早く結婚させようとしていた。韓国で挺身隊=慰安婦という認識は戦時中からあったようで尹貞玉(1925年生)も1943年度中に退学して「挺身隊行き」を逃れている。 また元慰安婦の証言からは「女子挺身隊」は詐欺の名目に使われている。
  • 1944年6月の内務省の文書には「朝鮮では動員についての認識が浅く徴用として嫌がり、結局未婚女子の徴用が必要であり、中にはこれらを慰安婦であるかのような荒唐無稽のうわさがある」といった記述がある。同年8月、国民徴用令が朝鮮にも女子を除いて施行される。同月に内地では女子挺身勤労令が出されたが、朝鮮総督府は朝鮮女子は除外すると言明した。当時、徴用忌避に気をつかっていて、また朝鮮女性の労働力登記は極小であった。
  • 高崎宗司によれば朝鮮人の挺身隊は、確実な資料から判断すると多く見積もっても4000名程度としている[5]
  • 韓国挺身隊問題対策協議会のように慰安婦問題を扱う団体の名が「挺身隊」とされていることについて、疑義が呈されている[5]
韓国挺身隊問題対策協議会は、韓国における日本軍相手の慰安婦を日本政府が強制連行したなどとして、毎週水曜日にソウルの日本大使館前で抗議活動を行っている。この団体が活動を始めたのは、金学順が日本政府に対する訴訟の原告として名乗りでた時に「親に40円でキーセンに売られた」と訴状に書いていたのを、朝日新聞植村隆記者が「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が名乗り出た」と捏造報道をしたことがきっかけになった。因みに植村記者の妻は韓国人で義母は訴訟の原告団長であるため、義母の訴訟を有利にするために「日本軍の強制連行」という話にしたという批判がある[10]
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女子挺身队是指在校女学生和未婚女青年被征召进工厂、军队工作,这个征召是无偿劳动。
1944年5月日本女子挺身队员结成率约7%,韩国声称被征召的女子挺身队约5-7万人,日本认为只有约4000人。
这个女子挺身队和童子军、少先队性质类同,选拔在校学生进入工厂工作以及进入军队从事后勤工作。


而慰安妇是公开招募的军妓,和女子挺身队完全是两回事!

2014年2月2日星期日

从“宛署杂记”中看明朝万历年间宛平县的财政收入

《宛署杂记》二十卷,成于1593年,作者沈榜(明),湖广临湘(湖南长沙市)人,万历十八年(公元1590年)任顺天府宛平县知县,在任期间留心时事,搜寻掌故,根据署中档案材料编著了《宛署杂记》,它记载了明代社会政治、经济、历史地理、风俗民情、人物遗文等资料,在北京史书匮乏的封建社会,它实际是宛平的县志,也是北京最早的史书之一。


万历初元,册开见在人户壹万陆千柒百贰拾户:民户六千四百一十五户,军户二千三百四十六户,杂役户七千九百五十九户。人口男妇共捌万壹千柒百贰拾捌口:男子伍万壹千贰百壹拾叁口,成丁三万八千四十九口,不成丁一万三千一百六十四口。妇女叁万伍百壹拾伍口:大二万九千九百九十八口,小五百一十七口。然非实征之民者。
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评:万历初年,宛平县统计人口,男女共8万余人,但实际上远没有这么多,有大量虚报人口




拾柒年,知县徐启东审定共壹万叁千玖百捌拾丁:

      。。。实编差丁壹万叁千肆百贰拾捌丁。上上则十四丁,每丁编银壹两陆钱肆分,共银贰拾贰两玖钱陆分。上中则十七丁,每丁编银壹两肆钱柒分伍厘,共银贰拾伍两柒分伍厘。上下则二十丁,每丁编银壹两叁钱壹分,共银贰拾陆两贰钱。中上则四十六丁,每丁编银壹两壹钱肆分伍厘,共银伍拾贰两陆钱柒分。中中则六十丁,每丁编银玖钱捌分,共银伍拾捌两捌钱。中下则二百六十八丁,每丁编银捌钱壹分伍厘,共银贰百壹拾捌两肆钱贰分伍厘。下上则九百六十四丁,每丁编银陆钱伍分,共银陆百贰拾陆两陆钱。下中则二千八百四十一丁,每丁编银肆钱玖分。共银壹千叁百玖拾贰两玖分。下下则九千一百九十八丁,每丁编银叁钱壹分陆厘,共银贰千玖百陆两伍钱陆分柒厘。共编银伍千叁百贰拾玖两肆钱。
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宛平县与万里十七年(1589年)统计人口男丁共一万三千余人,除去不用缴纳丁银的少数特殊人群,一共缴纳丁银5906两。


役分二等,每三年本县官申请详允审编一次。一曰实役,择丁之有力者,佥为正户,次为贴户,各照丁则银数,取足所定工食,而止编给由票,自行收讨。一曰募役,查照丁则征银,在官听募役领给。节年征派数目无可考,姑记万历贰拾年者。实役共计一千五十二名,通共该编银叁千捌百叁拾陆两陆钱。
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万里二十年(1592年),宛平县共计支付役银3836两,服役人数1052人。
这是支出,不是收入。


万历贰拾年,征粮地贰千捌百陆拾伍顷伍拾肆亩叁厘伍毫。
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田分为官田、民田,每亩大致征银三分,大约每年进项八、九千两银子。


洪武初,北平兵火之后,人民甫定。至永乐,改建都城,犹称行在,商贾未集,市廛尚疏。奉旨,皇城四门、钟鼓楼等处,各盖铺房,除大兴县外,本县地方共盖廊房八百一间半,召民居住,店房十六间半,召商居货,总谓之廊房云。房视冲僻分三等,内大房四百四十三间,每间每季纳钞四十五贯,钱九十文;中房二十九间,每间每季纳钞三十一贯,钱六十二文;小房三百二十九间半,每间每季纳钞三十贯,钱六十文。每季共钞三万七百一十八贯,铜钱六万一千四百三十六文。内有洪武钱九千七百一十文。
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房屋出租亦是宛平县的一个财政来源。每年百十两银子。(注:钞就是纸币,等同于废纸,一贯大约等同于一文铜钱。)


历十九年分,知县沈榜收过税契银二千一百三十两六钱七分六厘。
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契税也是县财政的重要来源。


铺行
宛平县额征银二千六百六十三两四钱。上中六则,人户共一千五百名,该银八百九十四两三钱,下三则,人户共一万二千七十九名,该银一千七百七十二两二钱。
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铺行如同房屋税,按早居住和工作性质征收,实际上就是人头税。


赋分二等:曰正赋,即起运存留正供,每年候府奉部札,酌岁所急,多寡微有差;曰繇赋,即各衙门人役杂费,奉文例于地亩征派。节年数目无可考,姑记万历贰拾年者。正赋中通共起存银叁千陆百陆拾捌两柒钱伍分贰厘陆毫伍丝肆微捌纤陆沙陆尘陆埃壹渺贰漠伍糢。
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万里二十年(1592年),宛平县一共向上级缴纳税款3668两。


繇赋中通共工食银叁千伍百肆拾壹两捌钱叁分捌厘叁毫贰丝肆忽柒微捌纤。
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宛平县的财政收入是3541两,略低于向上级缴纳的税款。



结论:以宛平县男丁一万三千余人的水平,每年征收各种税,合计约有一万八千两左右,但县政府支出也很多,力役一项就支出近四千两,其余各项支出加起来更多。

以宛平县人口占当时明朝千分之一计算,明朝一年财政收入总额应该是两千余万两,但交到朝廷的不过三四百万两而已。这和事实完全相符。