2014年1月8日星期三

百人斩的真相

为什么说百人斩的审判是一场闹剧?


野田毅、向井敏明是百人斩的两个参赛者,战后被支那法庭判处死刑。

这场审判完全是一场闹剧!

作为呈堂证据不过是东京日日新闻的四则报道。

而这四则报道,没有一句提到他们杀的是平民,完全是颂扬他们在战斗中奋勇杀敌的光辉壮举。


但支那法庭却把报道歪曲成:杀的都是平民,而且是在南京陷落后杀的。

由此,南京大屠杀百人斩元凶的帽子就扣在他们头上,48年一月,枪决于雨花台。


1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>


百人斬り競争!両少尉、早くも八十人

[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。

無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた

その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。

向井少尉

この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ

野田少尉

僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ


1937年(昭和12年)12月4日朝刊 <第2報>


急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過

[丹陽にて三日浅海、光本特派員発]
既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。

常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。



1937年(昭和12年)12月6日付朝刊 <第3報>


89-78〝百人斬り〟大接戦 勇壮!向井、野田両少尉 

[句容にて五日浅海、光本両特派員発]
南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた

1937年(昭和12年)12月13日朝刊 <第4報>


百人斬り〝超記録〟 向井 106-105 野田
両少尉さらに延長戦 

[紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]
南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した

野田 「おいおれは百五だが貴様は?」  向井 「おれは百六だ!」・・・・両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局 「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」 と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。

十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が 「百人斬ドロンゲーム」 の顛末を語つてのち

知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。
十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を 「えいまゝよ」 と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ 
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

<二人が軍刀をついて立っている写真つき>

这四篇报道只是描写了两个青年军官,从常州开始到南京紫金山脚下的一场杀敌竞赛。

从没有一个字说他们是屠杀了俘虏和平民。

支那法庭完全是在栽赃陷害。

支那法庭对百人斩的判决书:


百人斩案判决书

一九四七年十二月十八日

  国防部审判战犯军事法庭判决

  三十六年度审字第十三号

  公诉人:本庭检察官

  被告:向井敏明,男,年三十六岁,日本山口县人,炮兵小队长。

  野田岩(即野田毅),年三十五岁,日本鹿儿岛人,日本第十六师团第四十五联队中队长。

  田中军吉,男,年四十二岁,日本东京人,日军第六师团第四十五联队中队长。

  指定辩护律师:薛诵齐律师,崔培均律师。

  右被告等因战犯案件,经本庭检察官起诉,本庭判决如左:

  主文:向井敏明、野田岩、田中军吉,在作战期间,共同连续屠杀俘虏及非战斗员,各处死刑。

  向井敏明、野田岩,在作战期间,隶属日军第十六师团中岛部队,分充少尉小队长及副官。田中军吉隶属六师团谷寿夫部队充任大尉中队长。于民国二十六年十二月会攻南京之役,因遭我军坚强抵抗,衔恨之余,乃作有计划之屠杀,借以泄愤。田中军吉在京城西南郊一带,以“助广”宝剑,连杀俘虏及非战斗人员达三百余名。向井敏明、野田岩则在紫金山麓,以杀人多寡为竞赛娱乐,各挥利刃,不择老幼,逢人砍杀,结果野田岩戳毙百零五人,向井敏明则以杀百零六人获胜。日本投降后,野田岩等,先后在东京被盟军总司令不缉获,经日代表团解送来京,由本庭检察官侦查起诉。

  理由:

  查本案被告向井敏明及野田岩,于会攻南京之役,在紫金山麓,以屠杀俘虏及非战斗人员为竞赛娱乐,结果野田岩共杀百零五人,向井敏明则以杀百零六人获胜之事实,匪特在当时留京外籍记者田伯烈(H.J.Timperlay)所著《日军暴行纪实》内已有详明记载,(谷寿夫战犯案卷内附件己)即核与远东国际军事法庭中国检察官办事处搜获之当时《东京日日新闻》所载该被告等如何在紫金山麓作“斩杀百人”之竞赛,如何于完成屠杀超越纪录后,各举血刃,含笑相向,谈论胜负各情感,亦相吻合。并有该被告等,分执凶刀借以炫耀武功之合摄照片标载“百人斩竞争之两将校”等字样,可资佐证。再参以南京大屠杀案已决谷寿夫之确定判决所载:日军分窜城内外,展开大规模屠杀,其中有杀人比赛一节,即系本件被告向井敏明及野田岩之罪行。是时,我被俘军民遭集体杀戮及焚尸灭迹者达十九万人以上,被零星残杀尸骸经慈善团体掩埋者达十五万人以上,均为该确定判决根据确切证据所认定之事实,并经本庭在丛葬地点起出尸骸头颅数千具为凭。综上参互以观,则被告向井敏明及野田岩系南京大屠杀案之共犯,实属毫无疑义。乃该被告等,自知无可讳饰,竟谓:《东京日日新闻》系虚伪登载,专为被告颂扬武功,以博日本女界之羡慕,期能早日获得佳偶云云。然查在作战期间,日军当局对于军事新闻纸统制检查本极注意,而《东京日日新闻》系日本重要刊物,如果该被告等并无此项杀人竞赛之事实,绝无故为虚构以巨大篇幅专为该被告等宣传之理。况该项新闻纸登载,既经本庭引用上开各项确切证据予以证实,即非通常传闻者可比,自得据为判决之基础。至谓以杀人为竞赛之凶残兽行,可作征婚广告,以博女性欢心,更为现代人类史所未前闻。其抗辩个节,均属无可采取。次查被告田中军吉,系已决犯谷寿夫之直隶部属,在谷寿夫攻陷京城施屠杀时,曾携“助广”军刀参与,已为该被告所自承之事实(见本庭本年十二月十二日笔录),而敌酉谷寿夫等,当时率部在我首都作惨绝尘寰之屠杀,历时十余日,遭戮者三十余万众,匪特有本庭三十六年度审字第一号确定判决可据,且为举世共闻之事实。被告田中军吉,既居于谷寿夫直隶部属之地位,持刀参与,且在混乱斩杀中,我被俘军民死于该被告所携之“助广”军刀下者逾三百人,此有日本军官山中峰太郎所编《皇书》一书,刊登该被告之军刀照片标载“曾杀三百人之队长(指田中军吉)爱刀助广”等字样可稽,并有该被告亲自挥刀斩杀平民之照片获案,可资印证。其系南京大屠杀案中实施杀人共犯之一,亦可无疑。虽据辩称:照片所摄伊本人系穿衬衫,显在夏令,而攻陷南京系在冬天,可见该照片仅能证明伊在另一地方斩杀一人等语。然勿论在挥刀奋力猛斩之顷,为便利动作,纵在冬令脱卸外衣,本属常事,已不容斤斤执此,希图避就。且其参与南京大屠杀之事实,已属众证确凿,有若上述,更奚容借端狡展之余地。按被告等连续屠杀俘虏及非战斗人员,系违反海牙陆战规例及战时俘虏待遇公约,应构成战争罪及违反人道罪。其以屠戮平民认为武功,并以杀人作竞赛娱乐,可谓穷凶极恶,蛮悍无与伦比,实为人类蟊贼,文明公敌。非予尽法严惩,将何以肃纪纲而维正义?瑗各科处极刑,以昭炯戒。

  据上论结,应依刑事诉讼法第二百九一条前段;海牙路正规例第四条第二项,第二十三条第三款,第四十六条第一项;战时俘虏待遇公约第二条,第三条;战争罪犯审判条例第一条,第二条第二款,第三条第一款,第十一条;刑法第二十八条,第五十六条前段,第五十七条。判决如主文。

  本案经本庭检察官李璇莅庭执行职务。

  中华民国三十六年十二月十八日

  国防部审判战犯军事法庭

  审判长石美瑜印

  审判官李元庆印

  审判官孙建中印

  审判官龙钟煌印

  右正本证明与原本无异

  书记官施泳

  中华民国三十六年十二月十八日


被告田中军吉,既居于谷寿夫直隶部属之地位,持刀参与,且在混乱斩杀中,我被俘军民死于该被告所携之“助广”军刀下者逾三百人,此有日本军官山中峰太郎所编《皇书》一书,刊登该被告之军刀照片标载“曾杀三百人之队长(指田中军吉)爱刀助广”等字样可稽,并有该被告亲自挥刀斩杀平民之照片获案,可资印证。其系南京大屠杀案中实施杀人共犯之一,亦可无疑。虽据辩称:照片所摄伊本人系穿衬衫,显在夏令,而攻陷南京系在冬天,可见该照片仅能证明伊在另一地方斩杀一人等语。然勿论在挥刀奋力猛斩之顷,为便利动作,纵在冬令脱卸外衣,本属常事,已不容斤斤执此,希图避就。

山中峰太郎所写皇兵一书封面
首页照片,说明是:“悲愿三百人斩之队长爱刀助广”


阵中小憩,居中者为田中军吉,当时是大尉中队长。

这是朝鲜人朴在文举报田中军吉的证据,两张照片,加一本书-皇兵。

照片中根本无法看清面目,但从帽子后面的垂布来看,是38年6月以后的军服,地上跪着的是美军飞行员。

这是太平洋战场美军轰炸机飞行员被日军处决。

因为美国轰炸机频频使用汽油弹轰炸日本平民,所以日本认为这些飞行员都是战犯,捉到后全部处死。



中国驻日代表团关于日军在南京杀人比赛的罪证致国防部二厅代电


中国驻日代表团关于日军在南京杀人比赛的罪证致国防部二厅代电

(1947年6月9日)

南京国防部第二厅厅长郑钧鉴:<36>辰俭<2100>电奉悉。据本组参谋赵鸿福转据韩国人朴在文密报称:田中军吉大尉,军统 国防部二厅,系南京杀人比赛时两日本军官之一,军统 国防部二厅,潜居东京,闻中国查办南京杀人比赛凶手甚急,正准备立即逃避等语。国民党国防部二厅。并提供田中持刀杀人照片两张,国民党国防部二厅,及田中队之《皇兵》刊物一种。细检《皇兵》刊物内容,军统 国防部二厅,虽未明述该田中即为南京杀人比赛主凶,但持刀砍杀绑跪之中国人,及斩杀三百人之队长爱刀照片二种,确系田中所为。罪证16。该犯实具备战争罪犯审判条例第二条第二款,国民党国防部二厅,及第三条第一款之罪。国民党国防部二厅。当时因恐其闻风潜逃,国民党国防部二厅,故就近密请盟军代为缉捕,罪证16,送请国内审询更充实之证据。二室二厅装修效果图。所有田中军吉亲手持刀杀人照片,国民党国防部二厅,及《皇兵》刊物,罪证16,已随同该田中交请上海战犯管理处接收,计已转呈,军统 国防部二厅,此间仍在继续搜觅其他证件中,奉询谨复。


来源:南京档案局《侵华日军南京大屠杀档案》
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田中军吉和百人斩竞赛完全不相干,也被判处死刑。


野田毅(左),向井敏明

野田毅遗书


野田毅氏の遺書(昭和23年1月28日日記より) 

 南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々 

 死刑に臨みて 

 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚く御礼申し上げます。 
 只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。 
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願い致します。 
 宣伝や政策的意味を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴らさんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。 
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が、到来する事を喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願します。 

 中国万歳 
 日本万歳 
 天皇陛下万歳 

 野田毅 

向井敏明氏の遺書 

  辞 世 
 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せること全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。 
 我が死を以て中国抗戦八年の若杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。 
 中国の御奮闘を祈る 
 日本の敢奮を祈る 

 中国万歳 
 日本万歳 
 天皇陛下万歳 
 死して護国の鬼となります 
 十二月三十一日 十時記す 向井 敏明 



37年11月30日摄于常州城门的照片,野田毅(右)、向井敏明。


法庭上的田中军吉(左)、向井敏明(中)、野田毅(右)。
百人斩竞赛行进图,从常州开始,经过丹阳、句容、涟水,最后抵达南京东郊紫金山。

12月2日在句容的战斗中,向井敏明被敌方迫击炮弹所伤,住院治疗,后面的战斗根本没有参加。

富山大隊長の「証明書」より




まず、「証明書」の方は、
 〈 一、 毎日新聞紙上記載ノ如キ「百人斬競争」ノ事実ナシ
   一、 大隊ハ昭和12年12月12日 麒麟門東方ニ於テ行動ヲ中止シ 南京ニ入ル事ナク 湯水東方砲兵学校ニ集結ス
   一、 (略)
  右者両名ニ関し3條ノ事実ナルコトヲ証明ス 〉

 「受傷証明書」の方は、
 〈 大隊砲小隊長少尉 向井敏明
 右ノ者 昭和12年12月2日丹陽郊外ニ於テ 左膝頭部盲貫及右腕下膊部盲貫弾片創ヲ受ケ離隊 救護班ニ収容セラレ 昭和12年12月15 湯水ニ於テ部隊ニ帰隊シ治療ス
 右受傷証明書也 〉

 この2通の「証明書」、とくに後者の「受傷証明書」で向井少尉の負傷が証明されたと言えればよいのですが、そうはならないところに難しさがあります。


但支那法庭拒绝接受日方证据,也不许他们聘请日本律师。

蒋介石首先捏造了一个子虚乌有的南京大屠杀,为了证明这个所谓的30万人被屠杀事件,一定要处死这三个日本军官,理由就是:这三个人就杀了500多人,30万人肯定是可信的。

37年8月27日,在上海一次战斗中,一个日军军官砍杀三十余名支那兵。

牛皮后来越吹越大。


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